2015-0329 石垣島 – 与那国島 – 竹富島 13/48

 

写真の対象が15年分以上あると、どうもひとつの旅がほったらかしになっちゃうなあ。与那国島3日目の朝。租納集落にある小さな総本山の神社、十山御嶽への挨拶から。

御嶽まわりの樹の写真を撮らせてもらっていると、近くの家の人に、鳥ですか?と声をかけられた。与那国は、野鳥を愛する者たちがはるばる写真を撮りにくる島、というのがひとつの観光の構図なのだ。鳥だと思うなら、声かけなければいいのに、なんてことは思わない。

前日の散歩中にも、なるべく緑色に近いレンタカーを借りて、何百万円もするかもしれないリック・ドムのバズーカーみたいなレンズを装着して、車の窓からこっそり構えている人も見かけた。自撮り棒で撮るのも写真、バズーカーで撮るのも写真、僕みたいに10年以上前のフィルムカメラで撮るのも写真ってわけだね。

僕はほんとにたいした目的もなく、この島で何を撮ろうとしているか。今まではわからなかったが、最近はひとつ、気配なるものを確かに撮ろうとしている、というのがある。

写真を始めた頃の僕の撮り方なんて、あれ撮ろう、あれそれ合わせて、こう切ろう、とか、僕は撮りたいものをひねくれつつも、かなり素直に(しかもたいてい画面の真ん中に見たもの)表していたものが多かった。

色々と経て、最近は、あれ撮ろうの前に、すでに自分のほとんどの意識をどこか近くにでもさりげなくでいいから放して置いておく(こちらの気を消す)。それからある気配をぼんやりとでも、なにか感じるかしたら、身体が勝手に導かれて、いちおう覗いて撮るか撮らないか、という繰り返しになっている気がする。

こちらの気配を消すのは、前からわりとやっていた(写真は上手じゃないけど、これだけは自信あり)。あと何が違うかというと、いよいよ押す瞬間なのに、視点もろくに定めていない、ということかもしれない。だから押す瞬間は、いつの間にこんな景色なんだ、ということがたまにある。以前は眼をぎろぎろと動かして、色んな情報を瞬時にキャッチしていたと思うが、今はそれらをただひとつの気配として感じる、気になったら撮っている、ということかもしれない。もちろん全部そんな撮り方じゃないけどね。

で、ただでさえ見ていない僕なのに、最後の最後までろくに見ないで押しちゃうクセもあるみたいで、後で写真を見てみないと自分が何を撮ったのかよくわからない場合が多々。だからフィルムの方が圧倒的に楽しいらしいんだ。よく考えてみたら、画質とかにはあまりこだわってないのだから、そういうことなんだと思う。感じた気配が、蘇ってくる感覚を楽しみたいのだろうな。

 

 

3046

 

#3046-15-03 /  Yonaguni Island 7(Touyama Utaki)

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