今日は、ほとんど1日寝込んだ。というより何度かに分け、短い眠りを繰り返した。起きた時は身体がだいぶ熱いなぁ。実際、風邪をひいたり、体調がわるいわけではない。いつもより休んで、いつも以上にぼんやりしている分、調子はいい。

心としてはすごいことになった日かな。簡単に言うと、訳のわからない強い力がいろんな方面から集まってきて、怖いくらいに心の中で結実(?)していった。今年の2月あたまに似たようなことが1日あった(#3440)。ただ今日のはより強烈だった。強烈すぎたから日常を放棄して、自ら寝込みを決めたというわけ。

感覚としてある程度は理解できるようになったので書いている。あぁきたな、とわかればしめたもの(そうか?)、逆らえないものに対する防御法を少し覚えたのはよかった。2年前の今頃の時期にも同じようなことがあったけど、あれはかなり最悪だった。ほんとうに自分に何が起こっているのかわからなかったから。自分を守るより、まず隣人に謝ることから始めたくらい(笑)僕はなんて言ったっけかな?、ごめん今日の僕はダメなんです、許してください、だったか。この時ばかりは状況を説明することもできなかったので、謝るしかなかった。彼女もさぞかし戸惑ったことだろう。都合のわるいことしてないゆうすけくんが、謝ったことなどないのだから。

空っぽで自分がいなくなった時、5月6月のちょっと蒸し暑いなぁという時期に起こるのか何なのか。発生タイミングは、必要だから起こっているとしか今は思えない。今日は少し沖縄のことを思ったので、2012年に相当久しぶりにひとり旅した沖縄の写真をここに載せている。那覇から原付で、本部町から伊江島にわたった時のこと。住んでいる親友たちに会いに行ったこと。さっき書いた、今年2月に似たようなことが起こったというのは、このあたりからきているとわかったから、その地点の写真を眺めている。

今月ゴールデンウィークには、その2月に心の中だけで呼ばれた人にも僕は会っていて(お互いの変わり時を祝福し合うようないい時間だった)、僕は全ての繋がりの中で生きていると知ることができる。またこれから何か大切な役割を果たそうとしていることもややわかる。

僕にとって沖縄という場所はそうとう大事だったみたい。これまでの10回以上の旅では、今日のようなぼんやり具合でよく一人で歩いていたから、その時の島感覚がここ東京でも蘇ってくる時がたまーにあるんだな。ある人は、龍の存在に心を向けるかもしれない。全くそこに及んでいない者が、すっかり抜け落ちたように、エアコンのフィルターの中から現れたドラゴンの卵の唄を、アコースティックギターを弾きながら僕に聴かせるのかもしれない。眼の前で起こってきた事実は、やっぱり未来に続く。

今日は眠りを繰り返した最後に、鯉のぼりの日に親友からメール添付された写真や、自分のフェイスブックタイムラインにやっぱりかというタイミングでにゃんと現れた親友のことを思う。誰よりも今の僕の状態を把握してくれているんだなと思うと(ここは思い込みでもいい)、突然涙がバカみたいに溢れ出し、そこからいろんなものが集まってきたんだと理解した。この涙がまた気持ちよく、今日1日の胸騒ぎは止んだ。ある意味、僕は必要なタイミングで、いろんな人にだいぶ助けられている。ここまでわかっていれば、明日はとてもすっきりした朝を迎えることができる。明後日は、今年いちばんかもしれない大事な撮影が控えているので、そこでいい写真を撮るための、今日1日であったような気がする。でもこういう日は、いい加減これで終わりにしてほしい。どこに頼めばいいのかよくわからないけど。今の僕はたぶん、普通の生活がまるでできていないんだな。

下の写真は伊江島のニーバンガジィマール。ふたりの兵士が逃げついた場所で、敗戦も知らずにしばらくは恐ろしくて木の上で生活したとされる場所。別にここに、僕が何かの意味を見出しているわけではありません。

 

 

#3486-12-05 / Easter lily / Chinese Banyan

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